33-02 経典の結集

33-02 経典の結集

2006/9/11(月)


 結集の一般的説明は下記のとおりである。しかし、初期の結集は口伝でなされたものと考える。以下は引用である。


 釈迦の死後、残された教えの散逸を防ぎ、間違いを正すためにたびたび結集が行われた。釈迦の在世中は疑義が出た場合は直接釈尊に確かめられたが、没後は確かめる術がなくなる。各自の口伝の記憶を照らし合わせ整理し成文化する必要にせまられた。そのためのいわば編集会議を「結集」という。

(一)第一回結集(五百結集)
 釈迦滅後すぐに、マハーカーシャパ(摩訶迦葉)が会議を招集し、五百人の有能な比丘がラージャグリハ(王舎城)郊外の七葉窟で、ウパーリ(優婆離)が律の、アーナンダ(阿難)が経の主任となり、読誦する本文を検討し、教団の名において編集決定された。

(二)第二回結集(七百結集)
 釈迦滅後100年のころ、戒律について異論が生じたので、ヴァイシャーリー(毘舎離)でヤシャス(耶舎)が主任となり、七百人が集まって律蔵が編集されたと伝えられている。

(三)第三回結集(千人結集)
 釈迦滅後200年のころ、アショーカ王のもとで、首都パータリプトラ(華氏城)において、モッガリプッタ・ティッサが主任となり、千人の比丘が集まって、経・律・論蔵全部を集成したという。第一・二回は北方・南方の両仏教に伝えるが、第三回は南方仏教にのみ伝えている。

(四)第四回結集
 二世紀のころ、カニシュカ王のもとで、パールシュヴァ(脇尊者)・ヴァスミトラ(世友)が中心となってカシュミール国の比丘五百人が集まって、三蔵に解釈を付し、それが『大毘婆沙論』となったという。この結集が、実際になされたかについては異論がある。

参照・引用
・『佛教語大辞典』(中村元著)「結集」より