24-06 薬師寺と三蔵法師玄奘

24-06 薬師寺三蔵法師玄奘

2006/10/17(火)


 昭和42年に故高田管主薬師寺白鳳伽藍復興を発願した。この発願はこの2003年3月の大講堂の復興によってようやく達成された。今日では、薬師寺は往時の姿をを取り戻している。

 薬師寺は、680年に創建された法相宗(ほっそうしゅう)の大本山である。しかし、数度の災害と1528年の兵火により、当時の建造物は東塔のみが現存しているにすぎない。しかし上記の発願の後、1976年には金堂が、1981年に西塔が、1984年には中門が、1991年に回廊の一部が、2003年には最後まで残された大講堂が復興された。有縁の人々のお写経勧進によるものである。

 薬師寺は、680年、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ のちの持統天皇)の病気平癒のため発願し、創建された。6年後完成の前に天皇が亡くなり、続いて即位された皇后(持統天皇)によって本尊開眼し、更に文武天皇の御代の698年に七堂伽藍の完成を見た。発願より18年の歳月が費され、藤原京において当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の荘美を誇り、なかでも裳階を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは「龍宮造り」と呼ばれて、人々の目を奪った。718年に平城遷都に伴い西の京といわれる現在の場所に移転した。

 薬師寺は前述したように法相宗のお寺である。法相宗とは、唯識の立場から法相(諸法のあり方)を究明することに努めたことから、法相宗といわれる。660年(斉明天皇6)帰朝した道昭を第1伝とし、703年(大宝3)入唐の智鳳らを第2伝とする。南都六宗の中で最も勢力があった。

 法相宗の始祖は三蔵法師玄奘(げんじょう 602~664年)である。玄奘は629年、唯識学などを原典に基づいて研究するためインドへいった。645年に、多くの経典を持ち帰り、その後経論の翻訳に献身した。後に、弟子の慈恩大師(じおんたいし)と、法相宗の根本教典となる『成唯識論(じょうゆいしきろん)』という書物を完成させる。

 その法相宗が初めて日本に伝えられたのが660年である。玄奘の帰国から数えてもわずか15年後のことである。インドの唯識の直輸入に近い。薬師寺には法相宗の始祖玄奘三蔵を祀る玄奘三蔵院の伽藍も建立されている。なかには、平山画伯のシルクロードの壁画が飾られている。

 ところで、写経に使われた経典は『般若心経』である。法相宗と『般若心経』との関係は薄いように思われる。しかし、玄奘がインドへの旅においてこの経典を肌身離さず持ち歩き、その読誦によって危難から救われたことがある。さらに、現在普及している般若心経は玄奘の訳である。玄奘とは縁の深い経典なのである。