21-05 竹内街道

21-05 竹内街道

 608年に小野妹子が隋使裴世清(はいせいせい)らとともに帰国する。このときには、飛鳥京と難波を結ぶ道路はまだ整備されていなかった。最古の官道とされる竹内街道(たけのうちかいどう)が整備されたのは、裴世清(はいせいせい)の帰国後のことである。この間の事情は竹内街道歴史資料館の上野勝巳館長さんの講演記録が詳しい。以下に引用させていただくこととする。文体を変更し、部分的に書き直している。
 
 竹内街道は、堺市大小路から河内平野を東進し、松原市羽曳野市~太子町を経て二上山(にじょうざん)南麓の竹内峠を越え、奈良県当麻(たいま)町の長尾神社に至る26kmの街道である。「日本書紀推古天皇21年(613)に「難波より京に至る大道を置く」と記された、飛鳥京と難波津を結ぶ大道のルートと大部分が重なることから、竹内街道は最古の官道ということができる。

 最初の国道ともいえる大道敷設は、607年の遣隋使と深く関わるものであった。この時、聖徳太子小野妹子に持参させた国書は「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」にはじまるもので、これをみた随の皇帝・煬帝は「蛮夷の書無礼有り」と立腹したと「隋書倭国伝」に記されている。しかしそれと裏腹に、翌年妹子の帰国に際して、裴世清ら13人の答礼使が同行してくる。かれら一行は608年に筑紫に着き、6月15日に難波、飛鳥京へ迎えられたのは8月3日のことである。

 先の国書は飛鳥の朝廷が大国・隋と対等の外交をめざしたものとされているが、実態とそぐわず、思いもよらぬ答礼使の来日に、飛鳥の朝廷が困惑している様子がその受け入れ日程の長さに現れている。

 さらに不思議なことは、8月3日の入京に際して飛鳥京からは北東の方向にあたる海石榴市(桜井市)へ出迎えている点である。逆方向への出迎えである。まだ難波津と京を結ぶ整備された道路がなく、旧大和川から初瀬川を船で遡上して海石榴市で下船したことによるものである。

 608年9月に使者が帰国の途につくと飛鳥の朝廷は、国家の威信にかけて難波津から京への官道造りに取り組み、これが「日本書紀」613年11月にみえる大道と考えられる。我国最古の官道は外交路として成立したもので、竹内街道はまさに飛鳥の朝廷の玄関口であったといえる。


 ここからは筆者の文である。

 平成の竹内街道として、2004年3月28日に南阪奈道路大阪府南河内郡美原町奈良県 北葛城郡新庄町、16.9km)が開通した。二上山の北を通って大阪に出る。快適な道であった。東西の道はほとんど整備されたが、南北の道(京奈和道路)がまだ未整備である。

引用・参照URL
 竹内街道歴史資料館上野勝巳館長     
 http://www.osaka.kkr.mlit.go.jp/outline/hotline/hl098/hl098_2.html