21-06 大和川の水運

21-06 大和川の水運

2006/10/26(木)


 大和川は、その源を笠置山地に発し、奈良盆地の周囲の山から流れる支流を盆地中央部で集めて一つになり、生駒山地金剛山地の間の峡谷を通って大阪平野に出て、大阪湾に流れ込んでいる。一級河川の大河である。生駒山地金剛山地の間にある峡谷部は“亀の瀬”といわれる。亀の瀬(三郷町王寺町)は、川の中に巨岩が多く、その中のひとつが亀岩といわれていることに由来する。しかもこの付近は急流となっている。

 大和川の水運の難しさの原因がこの亀の瀬にある。江戸時代から明治の初めまでは、大和川は水運に使われていた。しかし、亀の瀬付近は浅瀬となって岩も多く船の通行は困難であるので、船の通行をここを境に上流・下流で二分した。品物は亀の瀬で奈良側、大阪側の船に積み替えられたという。

 上流で利用したのが魚應(やな)船、下流では剣先船といわれる船が利用された。剣先船は真横から見た船首の形が刀の切っ先に似ていることから剣先船と呼ばれた。下流の水深の深い川を勢いよく下ることができるようになっていたのだろう。魚應船は上流の水深の浅くて流れが緩やかなところで支流にも入ってゆけるようなつくりになっていたと思われる。江戸時代に入って、奈良盆地では二毛作が始められ、菜種などの商品作物が栽培され始めたのが水運発達を促したと思われる。

 享保期(1716~1735)の記録では、支流のかなり上流まで船が遡上していたことがわかる。初瀬川筋は嘉幡(かばた)、寺川は今里、飛鳥川は松本までさかのぼることができた。そこには浜(港)があり、問屋の倉庫が並んでいて、各地に陸送する人馬が常備されていた。ちなみに、当時の時刻表によると今の奈良県田原本町から大阪市内まで約十三時間かかっている。しかし、明治25年に大阪鉄道(いまのJR関西線)の開通によって、大阪と大和盆地間の物資の交流は、これに奪われてしまうことになった。いまは今里にも松本にもその面影は残っていない。

 飛鳥時代大和川の水運はどうであったのか。607年に派遣された遣隋使の小野妹子が翌年に、隋使の裴世清(はいせいせい)をともなって帰国する。裴世清の一行は、海柘榴市(つばきいち 桜井市金屋付近)で船を下りて、飛鳥に入った。日本書紀には「飾騎(かざりうま)75頭を遣して唐の客を海柘榴市に迎える」と記述されている。裴世清は12人の従者を連れてきている。また、出迎えの馬が75頭も用意されている。日本人の随員や荷物もよほど多かったのだろう。

 大量の人員や荷物を運ぶのに船ほど適しているものはない。裴世清の一行は難波から乗船し、そのまま大和川を遡行し、海柘榴市にいたったのであろうか。しかし、船の運行にとって亀の瀬の峡谷部分は大きな障害である。峡谷の入口の王子市と出口の柏原市との間の標高差は15mある。亀の瀬付近はは急流である。その上、亀の瀬の岩が船の運航を妨げる。一体、どのように遡行したのか。陸路で大和盆地に入ってから乗船したとは考えられないだろうか。 

引用・参照
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/4.rekishi/8.toku/09.mukashibanashi.html