21-13 斑鳩移転と不比等

21-13 斑鳩移転と不比等

2006/10/27(金)


 法華寺は奈良の平城京跡の大極殿跡地の東方にある。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。大和国国分尼寺、日本の総国分尼寺と位置付けられるのは、2年後の天平19年(747年)頃からである。内裏は天皇が居住し、政務が行われるところで、平城京の北の中心にあった。不比等の屋敷は内裏に隣接していた。

 不比等の屋敷は隣の海龍王寺にまで及び、「八町」(約十三・五ヘクタール)の広さであった。平城京では天皇以外では、4町が最高の広さであったから、不比等の屋敷はその倍の広さとなる。丁度同時代の長屋王の屋敷跡も近年、発掘されたがその広さは四町であった。

 不比等の屋敷は、平城京への遷都に先立ってつくられていた。いつごろのことであったのか、また、どれくらいの規模であったのかはわからない。その当時は辺りは一面の田野であったことであろう。不比等の屋敷の北には平城山(ならやま)が広がる。山麓には今もため池がいくつかあり、水利にも恵まれていたであろう。

 当時の都は藤原京である。藤原京は飛鳥の北の大和三山に囲まれたところにある。藤原京から不比等の屋敷までは、直線距離にしても20kmは離れている。このような遠方の地に屋敷を作った理由はどこにあるのか。聖徳太子斑鳩への移転と似ているところに注目したいところである。

 不比等の育ちの影響が考えられる。不比等は幼少の頃は、山科史(やましなのふひと)のところで育てられている。山科は平城山を西の方で越えてさらに北に行った所である。山科で育った不比等にとて、平城山の南は決して遠いところではない。また、藤原京大和三山に囲まれて、不比等がその権勢にふさわしい大きな屋敷を構えるだけの余地がもうなかったことも考えられる。

 こうした理由も考えられるだろうが、20kmはいかにも遠すぎる。それにもかかわらずここを屋敷の地としたのは、不比等は地の利に気がついていたからである。北側に平城山の山地があり、東には笠置山系の山々、西には生駒山が縦走している。南には大和川がある。風水にぴったりの山である。

 不比等はその地の利に気がついて自分の屋敷をつくった。しかし、将来の遷都の候補地として考え始めたのはいつかは分らない。屋敷を移す前なのか、屋敷を移した後なのか、は分らない。20kmの距離を考えると、遷都の候補地にあらかじめ自分の屋敷を作ったと考えることもできる。

 天皇家外戚関係を持ち、平城京への遷都を画策した藤原不比等の邸宅は、遷都計画時から平城宮の東隣に割り当てられていた。不比等の死後は法華寺となる。

 平城京遷都の詔勅に「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並に従ふ。)」とある。この「四禽図に叶ひ」とは四神相応のことであり、奈良時代には平城京が四神相応の地であると観念されていた。

 平城山を北にする四神相応の地は、不比等の屋敷としても、都としてもふさわしいところであった。聖徳太子斑鳩への移転も、太子が斑鳩を四神相応の地と考えた可能性を指摘しておきたい。


■ 藤原不比等邸宅跡、古代の政略家 実像に光 <yomiuri.online>

 大宝律令編さん、平城遷都、日本書紀の完成――。いずれの事業にも深くかかわったとされる藤原不比等(659~720年)。古代日本の国家体制が整えられる時期に、抜群の功績があったにもかかわらず、現存する史料は断片的で、その生涯には多くの謎が残る。
 二十七日、明らかになった奈良市法華寺境内の不比等邸とみられる建物跡は今後、「等しく並ぶ者なし」との名を持つ大物政治家の知られざる実像に光をあてそうだ。

◇謎に満ちた生涯 専門家 「天皇との近さ示す」

 邸宅跡が見つかった奈良時代の有力者では、一九八八年の発掘で、名前を記した木簡が出土した悲劇の宰相、長屋王が知られる。最近の研究では、不比等邸の敷地は、法華寺に隣接する海龍王寺を含む「八町」(約十三・五ヘクタール)と推定。長屋王邸の二倍、孫の太政大臣仲麻呂邸の一・五倍に相当し、突出した広大さを持つとされている。

 藤原不比等の邸宅跡とみられる柱穴が出土した法華寺(手前)。中央下が本堂。上は平城宮跡(本社ヘリから) 一方、不比等について具体的に描写している文献はなく、木簡などの出土もない。正史に登場するのは三十歳を超えてからで、それ以前はほとんどわからず、奈良時代後期に著された藤原氏の人物伝「藤氏家伝」も、上巻は鎌足伝、下巻は不比等の長男の武智麻呂伝で、「不比等伝」はない。だが、不比等の子孫は父の威光で権力を掌握した。

 不比等の娘の宮子は文武天皇の妻で、聖武天皇の母。さらに聖武天皇の妻、光明皇后不比等の娘だった。息子四人も南家、北家、式家、京家の「藤原四家」を興して朝廷の要職を独占し、藤原氏の隆盛は平安時代まで続く。

 絶大な政治力をうかがわせる不比等は、その時代、なぜか、左大臣太政大臣の要職に就くことを固辞。その下の右大臣にとどまり続けている。上田正昭・京都大名誉教授(古代史)は「影にいた方が、政治を進めやすかったのではないか。史料の少なさも、証拠を残さなかったからとも言える。政敵を意識した政治的な展望の確かさだ」と話す。

 不比等フィクサーぶりを指摘するのは、千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)。「今回の成果から、不比等天皇に最も近い場所にいたことがわかる。賢く、表に出ない政治家は、現代にもいる」という。さらに「詳細がわかっている長屋王邸との比較で、当時の権力者の暮らしぶりが解明できれば」と今後の調査に期待した。

 今回の発見について、法華寺の久我(こが)高照門跡は「信仰あつかった光明皇后様がお父上の財産を喜捨し、慈悲の心を持って衆生を救おうと寺をお建てになった由緒がわかり、ありがたいことです」と喜んだ。(2004年4月28日)


■ 不比等の経歴
659年 誕生
669年(11歳) 鎌足死去
688年(31歳) 直広肆(従五位下)判事
?      直広弐(従四位下
694年(37歳) 平城遷都
697年(39歳) 娘宮子を入内
?       中納言
700年(42歳) 律令の撰定に着手
701年(43歳) 大宝律令なる
       中納言より正三位大納言に昇進
       外孫、首皇子聖武天皇)誕生
704年(47歳) 従二位
708年(51歳) 正二位
       右大臣
710年(53歳) 平城京に遷都
720年(63歳) 死去
       贈正一位太政大臣 文忠公、淡海公を贈諡