16-07 北周武帝の廃仏と末法思想

16-07 北周武帝の廃仏と末法思想

2006/11/23(木)


 鳩摩羅什によってもたらされた「空」の思想は、ある危険性をはらんでいた。「空」の思想は、戒律と修行の否定、教団生活の否定の契機をもっていた。「空」のみが一人歩きし、戒律と禅観法が整っていなかったことが一つの原因であるが、「空」が本質的にもつ、矛盾であったのかもしれない。この問題が、北周の廃仏にまで発展したことがある。南岳慧思(なんがくえし 515~577年)が、末法の考えをはじめて説いたのはこのような時代を背景としている。

<参考> 三武一宗の法難(さんぶいっそうのほうなん)
 中国で仏教を弾圧した事件の中で、規模も大きく、また後世への影響力も大きかった四度の廃仏事件を、四人の皇帝の廟号や諡号をとって、こう呼ばれる。

1.北魏の太武帝(在位423~452年)の太平真君年間。
2.北周武帝 (在位560~578年)の建徳年間。
3.唐の武宗  (在位840~846年)の会昌年間。
4.後周の世宗 (在位954~959年)の顕徳年間。


 以下引用である。

 北魏が東西に分かれた後、東魏北斉に、西魏北周となった。北周武帝は、富国強兵政策を推し進めるにあたり、道士・張賓(ちょうひん)と還俗僧・衛元嵩(えいげんすう)の提案を受けて破仏を行う。この破仏によって仏教は大打撃を受け、還俗する者、山に隠れる者、南地に逃げる者が続出する。北周武帝は、建徳6(577)年に北斉を滅ぼし、北斉の地でも破仏を行う。翌年、武帝が亡くなり、長子の宣帝が立つが、宜帝は武帝とは逆に仏教興隆の政策をとった。西暦581年、北周の帝位を譲られた揚竪は隋を立て、ここに国家統一が成し遂げられるのである。

 北周の都長安北斉に劣らず仏教が栄えていた。第三代皇帝武帝(在位560~576年)は時の実力者宇文泰(515~572年)の推挙を受けたこともあって、隠忍自重していたが、ようやく十三年目にして彼を殺害し、親政をとりもどした。

 これよりさき天和二年(567)、蜀の佯狂を自任する僧侶、衛元嵩(えいげんすう)は、”曲見”伽藍を廃し”平延”大寺の造立を上言した。

 「それ平延寺とは、道俗を選ぶことなく、親疎を擇ぶことなく、黎元を愛潤し、ひとしく持毀なく、城隍をもって寺塔とし、即ち周主は是れ如來にして、郭邑をもって僧坊となし、夫妻を和して聖衆と為し・・・」(『広弘明集 卷七』)というものである。

 夫平延寺者。無選道俗罔擇親疏。愛潤黎元等無持毀。
 以城隍為寺塔。即周主是如來。用郭邑作僧坊。和夫妻為聖衆。

 要するにこの地上から今ある伽藍や経像や僧侶らを除き去って、王法(皇帝)一元の世界をつくれ、そのことがかえって仏法の世界を実現するものだ、というものである。これは一見、奇狂の言のようにみえるが、それほど軽視できないものである。事実、道宣は彼を『続高僧伝』中に入れているし(同巻二十五)、その上言が『大智度論』巻二十五の天王仏にもとづくことをいっている。

 そこには「天王仏の如くんば、衣服儀容、白衣(ぞくじん)と異なることなく托鉢も須いず」とある衛元嵩の主張の根拠が羅什のもたらした「諸法実相」の教説にあることは確かである。「諸法実相」ならば「一切皆道」なるべく、人為の仏の荘厳の世界をわざわざつくらずとも、すでに仏の世界は現成している、ともいえる。当時の北周の人史ら、なかんずく義解の蘊奥をきわめた僧侶らも、深い驚愕の色をもって彼の言動を迎えたに相違ない。

 ・・・

 建徳三年(574)五月、道仏二経を廃する詔が下される。ここに、仏寺、経像が破壊され、僧侶は一興に壊滅させられた。これが三武一宗の法難の第二の事件である。この時の詔は殆んど残っていないが、これより三年のち、建徳六年(577)に行われた北斉の地での廃仏の詔は『広弘明集』巻九、周祖平斉召僧鈘廃立にうかがえる。その一節に「真仏に像(かたち)なし」と見え、これが武帝廃仏の思想的根拠で会ったらしい。『肇論』には「法身は像(かたち)なし」とも見え、「諸法実相」の教説の譜系をひいていることが窺われる。

 これにたいする仏教側の反論は、当時の大徳、浄彰寺の慧遠(えおん 523~592年)によって切先き鋭く展開される。そこには「誠に天旨の如きも、但だ耳目の生霊は、経に頼りて仏を開き、像を藉りて真を表わす。今若し之を廃せば、以て敬を興すことなけん」などとある。

 武帝による廃仏令はその死とともに終わり、やがて前代をしのぐ隋代の仏教復興を見る。しかし、これが中国の仏教徒に与えた心理的影響は深刻なものあった。その十年ほど前の天統二年(566)、北斉の都、鄴(現河北省臨漳県)では、那連提耶舍(なれんだいやしゃ 490~589)が来たって『大集月蔵経』十巻を翻訳した。そこには正法五百年・像法千年・末法万年説が説かれている。仏滅年時=前949年(周書異記)とすると、末法天保二年(552)に入っている。

 当時華北の政治的緊迫が加わって、仏教徒の間には、わが世は末法の時代に入った、という恐れが弥漫した。今や武帝の断行した廃仏は、彼等をしていやが上にもこれを信ぜしめることになった。証なく行なく教なくして、無仏の世となったならば、われわれ仏教徒は如何に生きてゆくべきか、と真剣に自らに問わざるを得なくなった。

 ここに念仏によってのみ浄土往生をうると説く曇鸞(どんらん 476~542?年)が、道綽(どうしゃく 562~645年)の浄土教が興起し、すべて生きとし生けるものを仏として敬うものこそ救われる、と唱した信行(540~594年)の三階教などが成立する。

引用・参照文献
・諏訪義純 「中国仏教の形成と展開」-六朝時代- 『仏教-流伝と変容-(下)』大阪書籍 p40