10-03 魏晋南北朝時代と仏教

10-03 魏晋南北朝時代と仏教

 

■ 時代の概略

 黄巾の乱によって後漢が滅び、魏、呉、蜀の三国が分立した時代から、隋が中国を再び統一するまでの約三七〇年間(220~589年)を総称して魏晋南北朝時代という。

 この時代を表す言葉には複数ある。後漢の滅亡の220年から西晋の統一280年までを三国時代と呼び、この時代には魏・呉・蜀の三国が争覇した事で有名である。

 280年から始まった西晋の統一時代はわずか32年と言う短い時間で終わり、311年の永嘉の乱で実質的に西晋は滅びた(完全に滅びたのは316年)。晋は南へ逃れて建康にて亡命政権を作り、これが東晋である。

 一方、華北では西晋を滅ぼした前趙を初めとした匈奴ら異民族が中心となった国が興亡した。西晋を滅ぼした前趙(当初の国号は漢)が興起した304年から439年の北魏による華北の再統一までを五胡十六国時代と呼んでいる。そして439年から589年の隋による南北統一までを南北朝時代と呼んでいる。

 またこれとは別にこの時代に江南地域(長江流域)に発展した文化・経済を重要視する意味で三国時代の呉と東晋から宋・斉・梁・陳までの六の王朝を合わせて六朝時代とも呼んでいる。

 仏教は後漢の時代には伝わっていたが、広く流布するまでには至っていなかった。仏教の受容が本格的段階に入るのはこの魏晋南北朝時代(220~589年)からである。この時代は中国周辺の非漢民族国家が独立し、漢民族のうちたてた中国固有の儒教よりも西方伝来の仏教を好む傾向があった。この時代、西域からの渡来僧は諸政権と結びついて仏教の伝道や訳経事業を推し進めた。


■ 三国時代と仏教

 ◇ 魏 (220~265年)
 魏の首都は漢代に安世高や支婁迦讖が活躍した洛陽である。『僧祇戒本』訳出の曇柯迦羅、出家受戒作法の『曇無徳羯麿』訳出の曇諦、授戒作法を受けた最初の中国人出家者たる朱子、『無量寿経』訳出の康僧鎧などが活躍。

 ◇ 呉 (222~280年)
 呉の首都は建業(南京)である。支謙(195?~254年)は大月氏帰化人で在俗の訳経家。支婁迦讖の孫弟子にあたる。洛陽で西域諸言語を学んで六ヶ国語に通じた。後漢末の動乱を避けて長安から建業(南京)に逃れ、呉の初代皇帝たる孫権の庇護を受ける。維摩詰経』『阿弥陀経『法句経』『太子瑞応本起経』など49経を漢訳。
 また康僧会(?~280年)は康居(中央アジアのソグディアナ)出身であったが、支謙と違い出家僧であった。剃髪した僧の出で立ちを非難され南より北上して呉に入る。『六度集経』などを訳経。

 ◇ 蜀 (221~263年)
 蜀(しょく)は華南の四川省を中心とし成都が首都であった。道教国家であった。


■ 北朝の仏教

 ◇ 西晋 (265~316年)
 竺法護(239~316年)は、西晋代の訳経僧。中国西部から中央アジアにかけて居住した遊牧民族である月氏帰化人の末裔で、敦煌に生れる。西域で多くの仏典を入手し、敦煌・酒泉・長安・洛陽などで仏教経典150部以上を翻訳した。鳩摩羅什以前の訳経では量質ともに最もすぐれている。

 ◇ 五胡十六国
 五胡とは五つの部族で、(1)匈奴(きょうど)(2)羯(けつ)<匈奴系>(3)鮮卑(せんぴ)<東胡系>(4)氐(てい)<チベット系>(5)羌(きょう)<チベット系>をさす。

  ① 前趙(漢)(ぜんちょう)(304~329)
 南匈奴劉淵が304年(元熙1)西晋の内乱に乗じて建国。洛陽を占領し、長安を攻略して西晋を滅ぼし五胡十六国の時代が始まるが、匈奴系の羯族の石勒によって併合された。

  ② 後趙(ごちょう)(319~351)
 匈奴が初めて華北にうち立てた国家である前趙の混乱に乗じて、前趙に従属していた石勒(274~333)が華北全土を制圧して建国した。石勒は奴隷から盗賊集団の首領になり、そこから身を起こした。石虎(在位334-349)は石勒の子である石弘を殺し帝位につくが国力は衰退し、死後は漢民族の反乱が起きて石氏と羯族は滅ぼされた。
 仏図澄 (ぶっとちょう) (232~348) は、西域のクチャ(庫車)出身で、9歳で出家。敦煌を経て310年に洛陽に来た。この年、すでに79歳で以後117歳で天寿を全うする。また、2m以上の長身で、華北を制圧した暴虐非道の石勒、石虎に慈悲を説く不思議な力を持った僧侶であった。石虎は石勒以上に仏図澄を敬信した。弟子に道安がいる。

  ③ 前燕(ぜんえん)(337~370)
 西晋の滅亡を機に鮮卑系部族や高句麗などを制圧して遼東・遼西方面を支配し、慕容儁(ぼようしゆん)(319~360)は後趙の内乱に乗じて河北地方に進入、燕帝国を建てた。

  ④ 前秦(ぜんしん)(351~394)
 第3代苻堅のとき西域を含む華北全域を平定し,五胡時代には珍しい政治の安定と文化の隆盛を築いたが,東晋併呑に失敗して国家は瓦解した。384年、呂光を遠征させ、亀茲国を攻略し呂光の捕虜とした。

 道安(312~385) は、仏図澄の弟子。毘曇宗は道安やその弟子慧遠らによって五世紀に成立したが、玄奘三蔵などが《倶舍論》などの主要論蔵を漢訳し研究して以後倶舍宗がおこり,毘曇宗はその中に解消された。

 また、苻堅は372年、高句麗に使者を遣わし、仏像・経巻と僧順道を送ったという。

  ⑤ 後秦(こうしん)(384-417)
 鳩摩羅什(350~409年頃)は、南北朝時代初期の中国を代表する訳経僧。インドの貴族の血を引く父と亀茲国の王族の母との間に生れた。最初は原始経典や小乗仏教を学んだが、やがて大乗に転向して中観派(空仏教)の諸論書を研究。384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となり、401年に後秦の姚興に迎えられて長安西安)に入り、精力的な訳経をした。

 インドに遊学した中国僧としては玄奘が有名であるが、この法顕(337~422年頃)もインドに求法の旅をして訳経をした僧侶である。399年に60余歳の老齢の身で他の僧らと長安を出発して、陸路インドへ向かった。

 敦煌から西域に入り、ヒマラヤを越えて北インドに至り、インド各地やスリランカで仏典を求め仏跡を巡礼する旅をつづけた。戒律などのサンスクリット経典をもって、海路帰国の途についたが暴風雨に遭い412年に現在の山東省にひとり無事に帰着した。帰国後6部63巻にのぼる経律を漢訳した。また法顕は中国西域やインドの弥勒信仰を中国に伝えた。
 法顕の旅行記『法顕伝』(仏国記)は当時のインドや中央アジアの実情を伝えた貴重な資料である。

 ◇ 北魏 (386~534年)
 道武帝(在位398~409年)が法果を道人統(沙門統:出家した僧侶を統括する役職)としたが、その法果は皇帝に対して「我は天子を拝むに非ず、すなわちこれ仏を礼するのみ(我非拜天子 乃是禮佛耳)」という言動をした。どうも不正常な国家仏教的様相があったようである。

 北魏の仏教は栄え、寺院数3万、僧侶2百万人であった。世祖大武帝(在位423~452年)は当初仏教を保護していたが、やがて道教を信奉するようになる。そして、魏武の法難(太武帝の廃仏)へと発展する。法難の原因は、仏教と道教の対立もさることながら、たくさんの寺院や僧侶を抱えたことによる国家財政的な問題、僧侶の堕落という背景がある。

 文成帝(在位452~465)は先帝の廃仏を改めて、仏教を興隆させた。中心となったのは廃仏にたじろがなかった、曇曜であり、僧祇戸(粟を僧侶が長官を務める役所に納める)、仏図戸(罪人や奴隷を仏教教団の労役にあてる)が設置された。

 また、文成帝の時代には高さ15mほどの五大仏をはじめとした雲崗石窟がつくられた。460年にはじめられ、その後524年まで次々に石窟がつくられた。東西1キロにわたる。なお、五大仏は歴代皇帝に似せて作られており、法果の「我非拜天子 乃是禮佛耳」の国家仏教を引きずっているようだ。

 『四分律』が北魏の法聡と慧光(468~537年)によって重視され四分律宗が成立。ここから三派に律宗は分裂するが、相部宗と東塔宗はまもなく衰微し南山律宗のみが栄えて宋代まで伝えられる。日本に渡ってきた唐招提寺の鑑真は南山律宗

 ◇ 北斉 (550~577年)
 僧尼四百万人、寺院数4万余と伝わり、やはり仏教は興隆していた。

 ◇ 北周 (557~581年)
 周武の法難(574年) 北周武帝による仏教・道教に対する弾圧


■ 南朝の仏教

 ◇ 東晋 (265~420年)
 『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』などの律部経典が中国に伝訳され、律に関する研究が盛んとなる。ここから、律宗が成立することになる。
 384年、百済からの遣使朝貢の見返りとして胡僧摩羅難陀が遣わされた。

 ◇ 宋 (420~479年)
 467年、道士の顧歓が廃仏のために『夷夏論』を著す。仏教と道教の根本の道は究極的には一致するけれども、習俗からしても夷狄(いてき 中国辺境の野蛮な異民族)の教えであって、中国には相応しくないと論ずる。

 ◇ 梁 (502-557年)
 西インドのバラモンの出身僧侶の真諦(499~569年)が梁の武帝の招きに応じ548年、建康(南京)に来訪する。戦乱のために各地を転々とするが精力的に経典を訳した。後に天台宗を開く天台大師智顗の父は梁の高官だった。
 真諦(499~569年)は、中国の三大翻訳家のひとり。南朝の梁・陳時代の外来僧。名前はパラマールタを漢訳して真諦と称した。梁の武帝の招きに応じて南京に来訪したが侯景の乱にあい、各地を転々としながら漢訳と著述に専念した。摂論宗の祖とされる。『金光明経』『倶舎釈論』『摂大乗論』『摂大乗論釈』『中辺分別論』『大乗起信論』など64部278巻を訳した。
 ただし、『大乗起信論』は中国・日本に多大な影響を与えたが、インド成立でないとする学説がある。

 ◇ 陳 (557~589年)
 この時代に建康(南京)で、無名の状態から名をはせた僧侶が智顗(天台大師)である。その名声は、当時の高僧、高官、皇帝にまで及んだ。やがて智顗は天台教学を確立する。